世の中では、差別やいじめが問題になっています。概して言えば「いじめる方」に問題があると言われていますが、そもそもいじめる側の思考というのはどのようなものなのでしょうか?私は、小学生時代はいじめかいじめられるかと問われれば、いじめられる側に分類されるですが(軽度などでそこまで深刻ではありませんでしたが)、では完全に高潔な存在であったかと問われれば、多少は自分側にも問題があったのではないかと、今から振り返ってみればそう思います。いじめる側の思考について、少し考えてみましょう。

基本的に世の中、悪人になりたくて悪事を働く人は、ごく少数でしょう。正義か悪か、どちらに所属したいかと問われれば、ひねくれ者でない限り正義を選びます。そういった意味では、悪人になりたくて、いじめをするというのはほぼ皆無です。

いじめで一番イメージしやすいのは中高生のいじめですね。暴行を加えたり、カツアゲしたり、集団で無視したり。悪事をしたくていじめるというより、やっている行動がたまたま悪事だったということに過ぎません。カツアゲの場合はお金そのものを欲しているということもあるのでしょうが、いじめの本質はそこでは無いのです。本質は、周囲の環境で満たされないことに対する一種の自己防衛本能にあります。日々のどうにもならない葛藤や怒りをたまたま手近なところで発散させているのです。発散させられる側としてはたまったもんじゃないですけどもね。

これについては、いじめる側、いじめられる側の関係からすると、総じていじめる側とその周囲に問題があり、そこが何とかなれば、形としては終息できるでしょう。



少し厄介なのはここからです。いじめる側が悪意を持たずにいじめている場合。例えば、いじめている側からすれば、じゃれているとか、ジョークやイジリのつもり、当たり前だと思っていることを口にしただけの言動なのですが、程度が酷すぎると、やられている側からすれば、いじめのように感じます。悪意無きいじめですね。

これについては、悪意が無い分、自覚症状が無く、いじめている本人が良心に基づいていじめを止めることができません。だれかが発見して指摘する必要があります。いじめている側も、いじめるつもりは無いので、きちんと指摘されれば止めるでしょうが、一種のコミュニケーション能力不足や思想に起因している訳なので、意図せずまたいじめてしまうこともあります。辛抱強く改善していく他はありません。

特に「自分は偏見は少ない方だけども」と思っている人ほど、意図せず、いじめのような発言をしてしまいがちなので、注意が必要です。ブロードウェイミュージカル『アベニューQ』では「誰もがちょっとずつレイシスト(ポルノ―!)」と叫ぶ歌があるのですが、自身の内面に潜む差別意識とうまく付き合っていく必要があります。






もっと厄介なのは、正義感を持ったいじめです。アイツはダメだ、悪だ、敵だと排斥する活動ですね。いじめられている側が、いじめている側にとって脅威に見えている。社会的にいえば、移民排斥運動なんかが、その典型です。人道的支援を求めて移民になりたがる人と、移民が押し寄せることによって治安悪化や雇用機会が奪われると思っている人との闘い。小さな規模では、組織で著しく場を乱す人を追い出す行為。

見る立場によっては、差別主義的行為、既得権益の独占行為、やむを得ない選定と断罪、聖戦など見え方は様々です。

私も小学生のとき、給食で牛乳を飲んでいるときに笑わされ、噴き出したことから爆弾扱いされて、女子達から机を離されたことがあります。私自身は傷ついた訳ですが、女子からすれば自分の給食の衛生に対する明確な脅威であるので、合理的に考えればまあ正しい。

話し合いで解決できれば最高ですけど、お互い正しいと思っているし、直接的に利害関係に関わることも多く、話し合ったところで簡単に解決できないことも多い。みんな笑顔で発展できるのが最高ですが、最大多数の最大幸福を優先するのかマイノリティを優遇するのかという思想的な問題になることもあるでしょう。




多分、いじめに遭遇しない環境で一番正解なのは、価値観のあう数人とこじんまり隠遁することなのだと思います。あと、もうひとつ、Twitterで興味深い投稿をみつけたので転載。