遅ればせながら映画『天気の子』を観てきました。予告編を見ただけで、あまりの絵の美しさに涙が出そうになっていたのと、中学のときに測候所に職場見学に行ったり占星術で飯を食っていたりするぐらい「空」というテーマには関心があったので、結構期待していたのですよ。



・・・マジヤバいですね。東京が雨から晴れに変わる瞬間が、圧倒的な画力でした。ストーリーとか構成とか無視して絵を見るだけでも充分すぎるほど価値があるのに、内容も音も良いときました。大雨で轟音のシーンの中、数秒の無音がなんともたまらない。2回も観に行きましたし、パンフも衝動買いし、何なら3回目も観に行こうと思ってます。


というわけで、ここからはネタバレ込みで感想を書いていこうと思います。



突然ですが、私は政治思想的には、「最大多数の最大幸福」にやや共感しています。少しかみ砕いて言えば、社会の秩序や発展のためには少しばかり(程度によりますが)不自由なことがあるのはやむを得ず、合理的にいこうという考え方です。それが大人ってもんだ。文句言うな。それにここ数年は私、セキュリティ関連のお仕事してますし、秩序は大事だと思いますよ。

しかし、この映画の主人公・帆高を第三者的な視点から見ると基地外ですし(主人公目線になれば仕方ないですが)、「最大多数の最大幸福」と真反対の行動をします。事情を話せば悪いようにされない状況であるにも関わらず警察から逃げ回わるのです。どこへ逃げても確実に距離を縮めてくる警察、ネットや防犯カメラの目。超高度化、システム化され、息のつけない現代東京の恐ろしさを感じさせます。

この映画では若干、警察がガラ悪く描かれていますが、別に公的なシステムに悪意はありません。むしろ、大雨警報が出たときは住民に警戒を促していますし、孤児状態で経済的に困窮しているヒロイン・陽菜やその弟に福祉の助けを差し伸べようとすらしています。

姉弟について言及するならば、彼女らは自分たちで生きていきたいと、福祉を跳ね除けてあがいています。私も無職時代に失業保険で暮らしていた手前、福祉に依存することの窮屈さと屈辱は理解しますし、それと同時に依存した方が圧倒的に合理的だとも実感があります。けれども、この姉弟の非合理な生活は、福祉の支援を拒否し、自由とプライドを拠り所にするホームレスの心理と似ているのです。実際、パンフレットにもこの映画の数あるテーマのうちのひとつが、「若者の貧困」と明記されているぐらいであり、この表現のリアルさには本当に力が入っているように感じられます。

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さてさて、ヒロイン・陽菜は、祈るだけで天気を晴れにするという不思議な能力が身についていました。そしてその能力の代償として、神隠しにあってしまうとのこと。雨が止まない東京を晴れにした代償で、神隠しにあった陽菜。帆高は、必死に陽菜を探します。それは、関東地方の天気の安定化よりも陽菜を選ぶことに他ならない行為なのです。

最大多数の最大幸福の原理からすれば、彼女に犠牲になっていただき、異常気象の鎮静化するのが、東京都民の晴れ晴れした生活と笑顔を取り戻すためには合理的だったといえるでしょう。平和と安定が維持された東京を背景に、人柱となった彼女を永遠の聖女と化するのは、美しい物語かもしれません。しかし帆高は、正に愛といえる必死な捜索で、陽菜を現実世界に連れ戻すことに成功しました。再び雨が降り始め、東京の大半は水にカオスに沈みました。

帆高は、東京の水没について自責の念にかられていますが、それを見守る大人・圭介は「自分たちのせいだなんてうぬぼれるな」と励まします。帆高は、陽菜に、圭介と似たようなことを言って励まそうかと考えましたが、彼女に再会した瞬間、この結果は自分たちで選択したものであり、大丈夫だと現状を肯定したのでした。最後の最後に、私は帆高は大人になったのだと思います。それは2019年時点での合理的な存在である大人ではなく、2021年(オリンピック)以降のよりカオスな時代を自分の決断によって生き抜く大人なのです。

※天気の子で帆高が家出したのは2021年っぽいです。ソースは劇中の8月のカレンダーの曜日。

この映画のテーマ曲『愛にできることはまだあるかい』の歌詞には「諦めた者と賢い者だけが勝者の時代にどこで息を吸う」とあります。システムに従って合理的に生きる現代社会を警鐘していると共に、これからの世界を生きるには、自分で決断する力、その決断を肯定する力、そして愛が必要だと暗示しているのかもしれません。彼らは我々は、聖なる存在としてではなく、人の子として、決断力や愛と共にカオスな現実をしぶとく駆けるのです。


ついでに、洪水に見舞われる象徴としての岩淵水門や貧困の象徴としての田端など、北区に愛をください。
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