私の手相には「反抗線」というものがあります。小指の下には感情線がありますが、さらにその下にある、手の外側から掌にかけて伸びているような線です。手相芸人の島田秀平氏は「あやまりま線」とこの線を命名しています。

反抗線

 
別に私、反抗的という訳でもなければ、謝らないということもありません(笑)。この線の一般的な意味は、「正義感が強い」ということらしいです。私は、悪徳スピリチュアルに対する批判を時折したり、道端でダウンしている等困っている人を見過ごせなかったりするので、実際に正義感は強い方だと思います。

ただ、手相の偉い先生曰く、この線の本質的な意味は「良くも悪くも相手と同じ目線の高さになる」とのこと。
 

たとえ、偉い立場の人であっても倫理的におかしいことをすれば、自分の立場に関わらず「人としてどうなのか」と思ってしまうのだそうです。そういった意味では、「答えはいつでもYes or はい」しかありえない縦型組織には不適応でしょう。昨今少なくない企業で、「経営者目線になれ」と叫ばれていますが、おそらく、言葉通りの意味で経営者目線になれます。もちろん、モラルやらTPOを考えられるかは別問題なので、口に出して言わない人も多数いるでしょう。

確かに、私は超縦型組織には抵抗があります。そして沢山手相を見てきましたが、私以外でもこの反抗線をお持ちの人は、やはり私と同様に縦型組織には向かないだろうなーと思わせる雰囲気を放っています。


さてさて、正義感の話が出ましたが、正義とはいったい何なのでしょうか?

まず一番、イメージしやすいのは正義のヒーローです。悪を倒します。「悪の対義語としての正義」というのは非常に明快です。ここで少し考えてみたいことがあります。例えば、桃太郎に退治された鬼には子どもがいたのかどうか。元々口が悪かった人が、周囲から虐められるようになったものの、虐めは悪だと庇いたてるのが正義かどうか。問題になってくるのは、どの側面から見ても悪という存在が稀有だということですね。


その次にイメージしやすいのは「弱者の味方」でしょうか。公平(Equality)と公正(Equity)という考え方があり、弱者に配慮するのは公正です。理念上、誰もが幸せを享受できるという意味で、公正の方向に行く方が美しいのでしょう。
公正と公平
しかし、弱者の味方が果たして良いことなのかは、難しい問題です。例えば、某野党は、弱者を守る政策を強く掲げています。そして、その野党の支持者の一部は「〇〇大臣死ね」とシュプレヒコールを上げています。あくまでも、そういう人たちは一部なのでしょうけど、弱者だからといって、必ずしも善良とは限らない訳です。仮に、強き権力者たちが弱体化され、その弱者たちが相対的に力を持ったとき、世界に正義は広がるのでしょうか?かつては強者だった弱者は、かつて弱者だった人たちに助けてもらえるのでしょうか?


「弱者の味方」を正義だとする考え方の反対は、「勝てば官軍」。民主主義の世界においてならば、最大多数の最大幸福が至極とされ、そのための施策ができると期待される政党が、票を沢山集め官軍となります。強者は正義という建前を経て、さらに強くなり、世の中は硬直化していくことでしょう。下剋上が起きづらいという意味で、天下泰平とも言えますが、正義という流れに追従できなかった弱者にとっては、地獄のような世界となります。そういった意味では、強者が強すぎるのは問題がありますし、弱者の尊厳を無視するというのもまた問題なのです。


権力と正義といえば、警察や公安などが浮かんでくるでしょう。彼らが、出動するのは、違法行為が起きた場合、あるいは起きそうな場合です。「適法」かどうかが、ひとつの正義の基準とも言えるかもしれません。古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、理不尽な裁判で死刑と判決されましたが、賄賂で刑を免れることができるにも関わらず、「悪法も法なり」と自ら毒杯を飲み干したとされています。法律自体が、不平等不公平であったり、暴力装置(法執行機関、警察など)によって始めて権威性が成立したりと構造として問題が無い訳ではありません。法律はそんな危ういものだからこそ、立法機関に所属する議員について、慎重に選ばなくてはなりません。

David_-_The_Death_of_Socrates


ここでトンでもない正義について考えてみたいと思います。これは古代エジプトでの価値観に基づくものですが、「神の法」に従うか否かというのが、正義の基準となるそうです。この神の法とやらは、人間基準で考えるべきものではありません。自然的普遍性、宇宙的普遍性という観点も加味され、場合によっては人間に苦しみを強います。自然災害などは人間としては嫌でも、神の思し召しのため悪ではない訳です。古代エジプト的多神教に留まらず、ストイックな宗教では、自虐とも理不尽とも感じられるところに正義の基準を置くことがあります。全ては神のために。願わくは、それらの理不尽さの教えが教団運営効率化のためでないことを。


最後にですが、無難そうな考え方としては「困っている人を助ける」というのがあります。アンパンマンで有名なやなせたかし氏を取材した記者は「困った人にパン差し出すこと」と表現していますね。個人的にもシンプルイズベストで、良い考え方だと思います。あえて、重箱の隅をつつくとしたら二つ。一点目は誰かを助けることで別の誰かを困らせることがあるもありうるということ。パンを無償であげるということは、どこかのパン屋の売上が減るということです。二点目は困っている人が善人であるとは限らないということ。インディアン(ネイティブアメリカン)の中には大航海時代に新大陸に渡ったヨーロッパ人を助けた部族もありましたが、結果として彼らは森を追われました。とはいえ、助けたその瞬間だけでも、正義は確かに輝いたのだと思います。


そんなこんなで、正義について色々考察してみましたが、いかがでしょうか?はっきり言うと、正義について真剣に考えるのはしんどいです。正義は必ずどこかに歪みを生むことでしか成り立たないからです。正しいかどうかをひとつの判断基準にしている人は、とても繊細で、世の中を生きづらいのかもしれません。でも、それで悩むのは尊いことなのかもしれません。