春節が明けるとということで、中国に関する思い出話をしようと思います。私が会社員時代、中国出向を命じられたのは2011年10月。現地着任は12月です。そのとき私が考えたことを記憶が薄れないうちにまとめておきましょう。

2011年といえば、東日本大震災があった年です。私は、東京で社員教育用教材を作る会社で働いていましたが、東北の港町出身ということもあり、この震災には並々ならぬ関心がありました。

特に、この震災が「東北」で、というところが私にとって大事でした。一人っ子にも関わらず、両親を東北に置いている現状に対してどうすべきなのか解決方法が思いつかないし、東北で両親が稼いだ金を大学時代に東京で大出費していた状況にも首を捻っていたのです。この感情は別に東北に限らずとも、地方から上京してきた人なら、大半の人は理解できるものでしょう。

南三陸町2011.5


この東北に対して後ろ暗い想いををしていた私は、ボランティア団体と接触し、何度も被災地に向かうこととなります。そして2011年9月下旬には例のボランティア団体に正式加入することとなりました。


ようやく東北に対して何か貢献できると思った矢先の、10月のある日、突如、社長から呼び出しがあります。

「第2の故郷が近くなるね」と社長はそう切り出し、中国北京市への出向の打診をしてきました。ベンチャー企業であったこの会社、採用面接のとき、社長が直々に面接官をしたのでした。そのとき、私は学生時代に中国に何度も行った時の話をしたのですが、それを覚えていたのでした。中国はある程度勝手を知っているつもりだったので抵抗は無かったし、海外で働くことはキャリアアップのためにはいいチャンスだと思いました。しかし、社長との面談を終わった直後、同僚からは真っ青な顔をしているねと指摘される程、私は動揺していたようです。

いずれにせよ、異動ということで、引き継ぎが必要だったのですが、当時の私は、社内で複数の仕事を抱えており、そのうちのひとつは、エネルギー関係会社の映像教材の制作でした。日本のエネルギー事情の混乱と安全神話の崩壊があった2011年、作業場の安全マニュアルを制作するのが、ミッションだったのです。しかも、それはよりによって東北の案件でした。制作スケジュールから見るに、私が完パケ(納品)まで日本に居られないのは明白でした。

出張先に向かう新幹線の中で、私は自分の無力さにただただ震えるばかりでした。それと同時に、日本での自分は死んだというのをようやく受け入れらるようになり、中国から日本の窮地を救おうと心に決めました。

上海
(写真は上海)

2012年始めの中国は、バブルバブルと騒がれているものの、日本に比べて活気づいているように見えました。中国人は未来の幸福を願い、金を稼ぐのには貪欲なのです。一方で、そこに住む日本人は、苦戦しているようにも見えました。

中国は世界の工場として君臨していましたが、人件費の高騰から、徐々にその立場が周辺のアジア諸国にとって代わられています。ただそれでも人口が多いため、市場としては魅力的だとされてきました。つまり、現地の日本人からすれば、工場ではなく市場として向き合うことが本格的に求めらているのです。とはいえ、商習慣の違い、中国人社員の仕事観の違い、政府によるあからさまな外資への冷遇、さらに原発による汚染で日本の食品には厳しい輸入制限などもあって、現地で稼げている日本企業って、そこまで割合として多くはなかったといえるでしょう。日本経済は限界だと嘆き、海外に活路を見出そうとした日本企業にとって、それはあまりにも酷い現実だったのです。

私はITツールを使った社内教育サービスを展開させることで、中国における日本企業に活路を見出させようとしました。日本企業を活性化させることで、ジャパンクオリティの製品を中国に輸出できたり、海外に活路を見出そうとした日本人の居場所を作ったりできるのではないかと考えたのです。これは自分所属している会社の方針だけではなく、私個人の意地みたいなものがありました。

結果としては、うまくいったものもあれば、失敗したものもありました。どちらかといえば、トライ&エラーの日々だったので、後者の方が多かった気もします。失敗したことに申し開きをするのであれば、2013年、反日運動が盛んになり、商談そのものが取りやめなったり、そのときの騒動でネットワークが不調になってサービスが提供しづらくなったり(中国では社会に混乱が起きると政府がネットワークをコントロールしようとします)と、完全に向かい風だったからとしておきましょう。その間にも、多くの日本企業が撤退していきました。毎月開かれていた大学OB会も、参加者が減って隔月になってしまう程です。

このように毒霧に囲まれる街で、自分は何ができるのだろうか、自問する日々を過ごしたのです。