もしも「何でも望みをかなえる」と神様から言われても、私は永遠の命を望まないでしょう。

人間といふのは、どこかで過ちを犯すものです。 おそらく、今の世の中で一度でも過ちを犯したならば、赦されないと思います。本を出版した酒鬼薔聖斗事件の犯人の叩かれよう。法的な禊は終わったにも関わらず、「日本を1000年恨むという韓国人慰安婦」のごとく、世間はひたすら彼を叩きます。


もしも、自分が数百年以上を生きることがあるとすれば、間違いなく、どこかで事故は起こすでしょう。場合によっては、致し方なく殺人をせざる得ないこともあるかもしれません。しかし、今の世の中、一度でも過ちを起こせば、インターネット上で拡散され、一生消えない傷跡を残すことでしょう。一生、罪はついて回ることになります。

永遠の命とまでは言わなくとも、長生きすれば、それだけ事故や罪を起こしてしまう可能性は高くなります。たった1回の罪や事故によって、それまで経験してきた喜びを全て無に帰すのです。 それだったら、事故を起こす前に、罪を犯す前にさっさと死んだ方が、良い人として死ねます。できるだけ早く死んだ方が、良い人として、無垢な存在として、この世を去ることに成功します。貴方も無垢なうちに決断してしまう方がいいのかもしれません。


私の書いていることが、暴論だと思うのであるならば、 「相手を許すこと」が必要です。

多分、こういった感覚は、私のような失業や貧乏自営業の経験、大けがや重病、ホームレス体験など社会的最底辺の地位を経験しないと理解し難いかもしれません。日本では一度レールを外れると、「正社員」という地位に戻りづらいと言われています。正社員が必ずしもいい地位だとは限りませんが、社会的底辺が正社員に戻るには、社会的許容とでもいいますか、一種の「許されること」が必要なのです。

そして「許さない」という行為は、「許されない社会」作りに加担していることと同義です。失業なんて、明日は我が身。迷ったら許す方が、いずれ自分の身に返ってくることでしょう。また、それと同様に自分自身を許すというのも、案外大事なことかもしれませんよ。


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