『蘇州夜曲』で有名な山口淑子氏の訃報があったようですね。ご冥福をお祈りします。中国と言えば、私があの国から離れて1年以上過ぎました。時々、あの頃の生活を振り返ります。仕事はとても忙しかったのですが、私生活は総じて孤独だったような気がします。

中国の車窓


駐在員に指名された私ですが、中国語をほぼ無勉のまま、北京生活を開始します。そのため、中国人のディープなコミュニティに飛び込むのはまず無理でした。そのため、まずは現地に住む日本人のコミュニティを探すことにしました。

中国にも日本人は沢山います。全土で10万人を超え、私がいた北京市でも1万人以上はいると言われていました。それぐらいの日本人がいると、対日本人向けサービスもそれなりにあります。例えば、ジャピオンやコンシェルジェというフリーペーパー。様々な日本人向けの店についての広告がひたすら書かれており、巻末には沢山の日本人サークルや交流会の案内が書かれてあります。それらを頼りに、幾つかの会合に参加してみたのですよ。


それらの会合では沢山の人と知り合え、愉しめました。しかしながら、孤独感はぬぐえませんでした。自分と似たような立場にいる人を見つけることができなかったのです。20代半ばという若さで駐在員になった私ですが、丁度その年代の日本人は、中国にはあまりいません。一般的に若手駐在員は30歳前後ぐらいです。留学生は20歳前後です。20代半ばだけ丁度少ないのです。また近い年齢の中国人の友人はいましたが、さすがに中国生活に対する愚痴を彼らに漏らす訳にはいきませんでした。詰まる所、近い者同士で意見をぶつける機会が無かったのです。

beijing-manshion


そんな訳で、会合のない天気の良い休日は、独りで街中を徘徊していました。とはいえ、気が滅入る程濃いPM2.5の影響で、外出を辞めた日も少なくありません。そんなときは基本的に家にいました。私が住んでいた家は、一人暮らしには広すぎる部屋でした。中国語を勉強しているか、持って行った本やゲームで時を過ごすか、日本にいる友人達の動きをfacebookでひたすら追いかける生活です。回線状況が悪くなると、facebookにアクセスができなくなり、繋がりが途絶える恐怖に怯えることも珍しくありませんでした。

通信が途絶えてどうしようもないときは、平原綾香の歌う『蘇州夜曲』でも聞いて、心を落ち着かせようとしました。毒霧荒ぶる窓の外を見ながら、広い部屋で蘇州夜曲を聞いている。私の日曜日はそんな感じだったのです。


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